都市改造の記憶
ローマの旧市街地内部には複雑な街路網の中に軸の通った計画的道路が散見される。
今回はローマのルネッサンス~バロック期(15世紀から16世紀)に行われた都市改造と、
1930年ムッソリーニ政権によって行われたフォロロマーノ・コロッセオ周辺の都市改造について述べる。
・ルネッサンス~バロック期(15世紀から16世紀)に行われた都市改造
①15世紀初期から起こる教皇庁による都市計画への介入
15世紀初期ローマではMaestri di Strada(都市管理官)が都市環境整備を行う機関として設けられていた。
都市管理官は当初、ローマ市に属する都市行政の専門職員であり、市壁、住居、街路、広場、公共施設に関する問題を受け持っていたが、
都市管理官は当初、ローマ市に属する都市行政の専門職員であり、市壁、住居、街路、広場、公共施設に関する問題を受け持っていたが、
1410年以降、都市管理管が作成するローマの都市環境に関する条例などに教皇庁の介入が目立つようになる。
(後には都市管理官に教皇庁から給料が払われるようになる。)
(後には都市管理官に教皇庁から給料が払われるようになる。)
1452年には教皇ニコラウス5世によって「ニコラウス5世によって新たに承認された都市管理官に関する法規」が示された。
この文書では教会やモニュメントだけでなく、街路や広場、水道、噴水、テヴェレ川の整備について詳しく述べられていたという。
教皇庁がこのような都市計画に対して深く関与する背景として、
・1305~1378年、教皇のアヴィニョン捕囚期に進んだ街の荒廃
・インフラの再整備の必要性 (15世紀初めはヴェルゴ水道(トレヴィの泉の水源)を覗きローマの水道はほとんど使用不能になっていた)
・聖年1450年、巡礼者が殺到することによっておこったローマの混乱
・建築家アルベルティとニコラウス5世の関係
等が示唆されている。
②ルネサンスの到来(ローマでは15世紀半ば~1527年)及びローマ略奪(1527)よる荒廃
15世紀半ばから教皇庁がパトロンとなり教会の修復や街路の整備などが行われていった。
教皇ユリウス2世とブラマンテによるサンピエトロ大聖堂再建計画(1505)や、ジュリア通り(Via Giulia)建設計画(1508年)などが有名。
1527年は神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世による教皇領のローマで殺戮、破壊、強奪、強姦(ローマ略奪)により市内は再び荒廃した。
参考資料
岡北一孝 著「ニコラウス五世による1452年の “Maestri di Strada” に関する法令とアルベルティの関係について」
ローマの街歩きへのおすすめ Invito ad una passeggiata a Roma
歴史的ストリートを歩こう ローマ市公式ページ
佐々木学 著「ローマ・フィオレンティーニ地区におけるジューリア通りの建設と発展」
③教皇シクトゥウス5世による都市改造(1585~1590)
教皇領での治安の悪化、市内に分散する教会同士の良好な接続(巡礼地としての再整備)の為、教皇シクトゥウス5世による都市改造が行われた。
都市改造の特徴として、当時巡礼地として機能していた重要な教会を結ぶように直線の道路を計画したこと、ランドマークとなるオベリスクを通りに設置したことがあげられる。
ポポロ広場から放射状に延びるリベッタ通り、コルソ通り、バビィーノ通り、トリニタ・デイ・モンティ教会からサンタ・クローチェ・イン・ジュルザレンメ教会に至る軸線等が整備された。
参考資料
シクストゥス五世の都市計画
Wikipedia シクストゥス5世 (ローマ教皇)
Grand Ideas in City Making
BLACKSPACES'S BLOG
・ムッソリーニによる都市改造
1930年ムッソリーニ政権によって、コロッセオを取り囲む円形の道路、及びコロッセオとエマヌエーレ2世記念堂を結ぶ広幅員の道路が建設された。
コロッセオ周辺の道路については1995年から元の状態へ戻すプロジェクトが進行している。
以下のサイトで道路建設時、及び建設後の写真を見ることができます。
参考資料
My Architectural Moleskine The Roman Colosseum
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